祖母はディミトリがトレーニング以外の時間を、ネットに張り付くようにしている現状を嘆いた。 食事中ですらスマートフォンを操作しながら何かの記事を読んでいるのだ。 ある時、後ろからそっと覗くと外国語の記事を読んでいる風だった。 もっとも、彼女にはどこの国の言葉なのか分からなかったようだ。「……」「彼は外国語を読めてるのでしょうかね?」 医師は外国の記事ばかりの所で尋ねてみた。 何処の国の記事を読んでいたのだろうかと思ったのだ。「どうでしょうか…… タダヤスが外国語に接する機会は無かったと思います」 祖母は読めているかも知れないとは思っていた。記事のスクロールする速度が遅いからだ。「何というか……」 これが写真などの画像に興味があるのなら、もっとスクロールする速度が早い気がするからだ。 日本と違って規制の無い外国のムニャムニャ画像は、お年頃の男子にとっては人気の的だ。 ある程度は仕方が無いと思う。 だが、ニュース記事らしきページを、食い入るように読んでるのは誰だろうと思ってしまうのだ。「何だか…… 私が知っている孫とは違う人になったみたいで怖いんですよ……」 祖母は日頃感じていることを医師に告げてみた。 後、夜中に洗面所の鏡をジーッと見つめているのも不気味に感じていた。「まあ、事故の影響だと思いますよ。 もう少し様子を見てみましょう」「はい……」 鏑木医師はそう言って慰めた。重症を負った患者の性格が変わるのはよく有ることなのだ。 粗暴な振る舞いで鼻つまみ者だった人物が、瀕死の重傷を負った後に温厚な性格になるなどだ。 人というのは生命の危機に接すると、色々と変化してしまうものらしい。「良く睡眠が取れていないようですから、お薬を出しておきますね」 鏑木医師はそう言ってニッコリと笑った。「はい。 お願いします」 祖母は薬と聞いて何だか嬉しそうに微笑んでいた。老人は薬を処方されるのが大好きなのだ。 飲んでいると自分が病気になっていると実感できるせいらしい。 それは生きている証でもあるからだ。 もっとも、この場合はディミトリへの薬であるが、性格が変わったのは病気のせいだと思い込めるからであろう。「それでは、次の検診は必ず来るようにタダヤス君に伝えてくださいね」 鏑木医師は祖母にそう告げた。 ただの頭痛だけでは入院は
自室。 ディミトリは早々と部屋の明かりを消してベッドの中にいた。遅くまで起きていると祖母が心配してしまうのだ。 彼は祖母に心配掛けるのはイヤなのでベッドに入って寝たフリをしていた。意識は他人とはいえ、自分の祖母に何となく似ている彼女を嫌いになれないでいる。(別に善人を気取るつもりは無いがな……) 天井に張られたポスターを見ながらフフフッと笑った。(恐らくはタダヤスの記憶が混じっているんだろうなあ……) ささやかだが他人を思いやるなどと考えたことが無いディミトリはそう考えた。(まあ、只のクズ野郎であるのは変わらないがな……) そう考えて自分の手を見た。見慣れたゴツゴツとした兵士の手ではなく、スラリとした如何にも十代の少年の手だ。(さて、これからどうしたもんだか……) 取り敢えず自分の身体に還ることは決めている。そのための手段を講じなければならない。 ディミトリが最後に覚えているのはシリアのダマスカス郊外の工場だ。まず、そこに行かなければ始まらないと考えていた。(そのためには金がいるんだよな……)(金が欲しいがどうやれば良いのかが分からん) 仕事をしようにもタダヤスは義務教育が必要な年齢だ。雇ってくれる所など無い。(銀行でも襲うか? いや、警備システムを探り出す手段も伝手も無いしな)(現金輸送車…… 同じことか……) ディミトリはベッドの中で身体の向きをゴロゴロと変えながら考えていた。(んーーーーーー……)(そもそも武器を手に入れたいが手段が分からん……) ディミトリは考えがまとまらないでいた。自分の住んでいた街では、街のゴロツキを手懐ければチープな銃であれば手に入る。 もう少し金回りが良ければ軍の正規銃ですら手に入ったものだ。 ところが、この国では銀行にすら護身用の銃は無いときた。(この国の人たちは、どうやって自分の身を守っているんだろう……) この国に住んでみて分かったのは、自分の身を護ってくれるのは他人だと信じ込んでいることだ。 その為なのか護身用の武器などは表立って売られていない。マニアなどが利用する店などで護身用と称する玩具だけだ。(そういえば…… 夜中に女の子が一人で歩いていたな……) 眠れない夜中になんとなく星を見ている事がある。 そんな時に、明らかに若い女性がトコトコと歩いているの見て驚愕したもの
何日か前の新聞報道で、自殺志願者を次々と殺した男の話を報道していたのを思い出した。 だが、報道はいつの間にか立ち消えた。 次は街なかで包丁を持って歩行者を次々と刺殺した男の話も途中で立ち消えた。 被害者なら氏名まで公表されるのに、この件では犯人の名前どころか年格好まで報道されなかった。 恣意的な報道規制が働くのだ。 この国の自称マスコミは、針小棒大で無責任な報道をするのをディミトリはまだ知らない。 彼らはニュースが大きく取り上げられれば良いだけだ。なので、報道内容に質は求めていない。 自分たちの発言に責任を持たないので、いい加減な仕事で構わないのだ。どうせ、国民もそんな事は求めていない。 身の丈に合った『知る権利』で満足しているらしい。知りたくない情報は遮断してしまう事で足りているのだ。(まあ、偉そうにふんぞり返っているのはロクデナシと決まっているがな) そう考えて、日本も自分が関わった国々と変わらず、クソッタレが牛耳っていることに安心した。 悪事を働いても平気でいられるからだ。(日本で銃を手に入れるにはどうすれば良いんだろうか……) ネットで色々と調べてみると、日本では銃などを普通の市民が購入することは出来ないのだそうだ。 ディミトリは日本の裏社会には何もコネが無いのだ。これではどうにもならない。(これがシリアやロシアなら軍上がりの武器屋から買えるんだがな……) だが、直ぐに考えを追い出した。無いものねだりしても仕方無いからだ。 ある程度の金があれば密輸する手立てもあるが、非常に高額になるのは目に見えている。(取り敢えずは自分で工夫して武器を仕立てるか……) 手元にある材料で武器を作った事はある。 戦闘地域にいると物流が当てにならないのだ。だから、手短な日用品で武器を作る訓練も受けたことがあった。 訓練と言っても元スペツナズの隊員達から簡単なレクチャーを受けただけだ。(後、訓練内容もどうにかしないと……) 日頃の運動のおかげで基礎的な体力は付いたと思う。次は実践的な訓練メニューを熟したいと考えた。(人目につかない空き家を利用するか……) 朝晩のランニングで適当な家に目処は付けていた。後はメニューと装備を用意するだけだ。 次は移動手段の確保だ。しかし、日本では車を運転できるのは十八歳以上であるらしい。それは四年
自宅。 ディミトリが早朝のランニングを終え帰宅すると居間で何やら話し声が聞こえてきた。「?」 彼が居間を覗くと祖母が電話口に向かって話し込んでいた。「まあ、敏行がご迷惑を……」 『敏行』というのはタダヤスの父親。相手は父親の元部下からのようだ。 ディミトリはシャワーを浴びるふりをしながら洗面所に向かい、そのまま廊下で会話を盗み聞きしていた。「それで如何ほどお金を借りていたんでしょうか?」 何でも金を貸していたので返してほしいという内容のようだ。(ん?) ここで、不思議に思った。既に葬式も終わってから日にちが経っている点だ。 こういった借金というのは、四十九日が過ぎた辺りで整理するものだと聞いていたからだ。 タダヤスの場合は父親の家のローンなどを弁護士が処理したと聞いている。(あの時の弁護士に任せればいいのに……) その事を思い出し祖母に忠告しようかと考えた。「はあ…… それぐらいの金額でしたら用立て出来ますが……」 どうやら、金額も数万円という少額のようだった。彼女は支払う気でいるようだ。「はい。 住所は……」 祖母は電話の相手に住所を教えてしまっていた。(あああ~……) 何とも無防備な人だ。タダヤスの父親の元部下という言葉を信じ込んでいるようだった。 相手は直接受け取りに来る様子だ。(いやいや…… 本物かどうかの確認が取れてないだろう……) そこでディミトリは祖母に尋ねてみた。「ねえ、何となく聞いてたけど…… 父さんは本当に金を借りてたの?」「あらあら、聞いてたのかい?」「あれだけ大きい声なら聞こえてしまうよ」「借用書もあるって言うからねぇ……」 世の中には、故人の死につけこみ、ありもしない借金をでっちあげて返済を求めて来る奴がいる。 今回も『少しでも貰えたら儲けもの』程度の考えで、平然と詐欺まがいの請求をしてくる輩が現れても不思議では無いのだ。 たとえ借用証書を目の前に突き出されたとしても、偽造された可能性を考えるものであろう。 だが、人の良いタダヤスの祖母は信じてしまっているようだ。 何でもタダヤスの父親の様子を細かく教えてくれたのだそうだ。 小一時間もたった頃、一人の男が訪ねてきた。名前は水野と名乗った。「どうも、初めまして…… 水野と申します」 そう言ってから一枚の名刺を渡してきた。
祈りが終わったのか水野は祖母の方に向き直り、背広の内ポケットから紙を一枚取り出した。「此方が借用書になります……」 出された紙はA4くらいの紙で金額と名前が入っていた。住所は前に住んでいた場所だ。 借用書の項目には出張代金の立替分と書かれていた。 だが、詳しい内容は書かれていない。パソコンで作られたものだろう。 「はい、息子の字です……」 祖母は長いこと名前を見つめていた。故人の母親がそういうのだから間違いは無いのだろう。 ディミトリには区別が付かなかった。元々知らなかったので無理もない。 だが、直筆であるとは言い切れないと考えていた。元の筆跡を読み込んで貼り付け編集が出来るからだ。 祖母は、暫く見つめた後に仏壇の引き出しから、現金の入った封筒を取り出し水野に渡した。 金額は予め聞いていた金額と心付けが入っているそうだ。「はい、確かに受け取りました…… では、借用書はお返しいたします」 中身を確認した水野は、丁寧に頭を下げ借用書を祖母に渡した。「あの…… 息子は他にも借金をしていたのでしょうか?」 祖母は気になるところを聞いてみた。何だか自分が知らない借金が在りそうだからだ。 実際、故人の隠れた借金が見つかることは良く在る話だ。 人間というのは自分の借金に負い目を感じてしまう。なので、人には中々相談しないものだ。 たとえ相談しても、素人ではどうにも成らない段階に成っていることが多い。もちろん、家族にもどうにも出来ない。 返済不可能な借金を抱えて自殺してしまうのもこういうタイプの人間だ。 だから、頭の良い貸主は遺族が遺産の相続を行った後で、借金の返済を遺族に求めるのだそうだ。 一度遺産相続をしてしまうと相続放棄が出来なくなるからだ。 他にも故人が連帯保証人になっているケースもある。保証人も相続対象になってしまうので注意が必要だ。 これの場合は更に悲惨で、借り主では無く連帯保証人に請求出来てしまうのだ。 何しろ遺産相続で金を確実に持っている。貸主としては確実に金を回収したいので持っている方に請求するものだ。 支払いの請求がなされた場合は返済しなければならない。借り主が返さなくても良い。それが連帯保証の怖さだ。 親兄弟といえども連帯保証人になるなと言われる所以である。「ああ…… 詳しくは分からないのですが、エフナント
自宅。 水野が帰った夜。ディミトリは詐欺グループから金を奪取する方法を考えていた。 この手の連中の始末の悪いところは、『悪いことをしてる俺かっけぇー』と思い込んでいる所だ。 だから、人の良い老人を騙すことに罪悪感を持っていない。寧ろゲーム感覚で小銭を稼いでいる。 自分たちのような悪に盾突く奴はいないと慢心しているのだ。(だからこそ、付け入るスキが有るんだよな……) そして病的に警察を嫌っている。つまり被害に遭っても届け出をする可能性が低いのだ。(どうやって有り金を頂けるかな……) 具体的な手順を考えている内に眠ってしまっていた。 数日後。ディミトリは柔道教室から帰宅した。柔道は格闘戦で力になるのを知っているからだ。 兵隊だった時には、軍の初年訓練で柔術の訓練をやらされていたものだ。 最初は基本訓練ばかりで嫌気がさしていたが、実戦に出ると随分と役に立っていたのを思い出す。 その記憶があるのだ。後は身体に基本的な事を覚え込ませれば良い。 帰宅して玄関に入ると、居間の方から祖母が誰かと話をしているのが聞こえた。 居間を覗いて見ると電話をしているようだった。「まあ、息子が本を出す予定だったんですか……」「金額は二百万ですか…… 私は出版という物には疎くて良く分からないものですから……」 それを聞いていたディミトリには『ピン』と来るものがあった。「それでは、見本を送って頂けますか?」「ええ…… ええ……」「お願いいたします……」 最近の警察の広報などで『オレオレ詐欺』の啓蒙活動のお蔭で祖母も用心深くなっていたのだ。 先日の水野の件では父親の直筆らしき借用書があったので大人しく支払った。 だが、今回は額が大きいので念を入れたらしい。「はい、わかりました。 それでは見本の到着をお待ちしております……」 祖母はそう言って電話を切った。「何、父さんの借金がまた有ったの?」 傍で聞いていたディミトリが何も知らない風で聞いてみた。「ええ、そうなのよ…… FX投資に関する指南書って本を出そうとしてたみたい……」 祖母は少し思案顔になった。まず、FX投資が分からなかったのだ。「あの子が本を出すなんてねぇ……」「前に来た水野って人がエフナントカで大損してたみたいって言ってたじゃない?」 ディミトリはエフエックス関連に絡めて詐欺を
翌日には本とやらが届いた。普通、出版物は著作者に献本というものが十冊程度配布される。ところが、彼らが送ってきたのは一冊だけだった。 契約書に出版社名は書かれていたが、検索しても出てこない怪しげな会社だった。「…………」 だが、祖母はその本を丁寧に読んでいた。きっと自分の息子を思い出しているのであろうとディミトリは考えた。 すると荷物が届いて小一時間も経った頃。居間の電話が鳴った。 彼らだった。「はい…… はい、届きました……」「その方に二百万円を現金でお渡しすれば良いのですね?」「はい、分かりました……」 彼らは近所にある大きめのスーパーを受け渡し場所に指定してきたようだ。 そこなら場所が分かりやすいからだとも言っている。(防犯カメラの死角を見つけたんだな……) ディミトリは彼らの意図を見抜いてほくそ笑んだ。 自分もそのスーパーはよく知っている。ビデオカメラの購入で利用したことが有るからだ。 屋上が駐車場に成っているタイプの大型スーパーだ。防犯カメラもどっさりと有る。(でも、死角はあるんだよなあ……) 屋上の入り口に向かうスロープと建物の間に、防犯カメラが無い事にディミトリは気がついていたのだ。 普通の人はそんな事は気にもしないが、ディミトリは本能的に防犯カメラの位置を確認してしまう。 正直だけでは生き残れない街で育ったので仕方がない。 そして、彼らはまさにそこを指定してきた。 やはり、似たようなクズ同士なので、意見が合う物だなとディミトリは感心した。(早めにビデオカメラを買っておいて良かったぜ……) ディミトリは詐欺グループの顔を押さえておこうと考えた。その方が後々楽だからだ。 祖母が持っていく紙袋の底に携帯電話を忍ばせてある。GPS装置で位置情報を取得するためだ。 一見すると何のアプリケーションも入っていないように偽装してある。後は上手く行くことを祈るだけだ。 指定してきた時間。ディミトリは落合う場所が見える場所に居た。道路を挟んだ向かい側だ。 そこのガードレールに腰掛けてスマートフォンをいじってる風を装っている。 ビデオカメラは腰のサイドバッグの中だ。穴を開けてレンズだけが露出するように工夫してある。 カメラ本体の操作はスマートフォンで行う。 犯人たちは二人組だった。恐らく『受け子』と呼ばれる係だ。
自宅。 ディミトリは自宅のパソコンに、スマートフォンから送られてくるGPS情報を打ち込んでいた。 スマートフォン上にも地図付きで表示できるが、軌跡が消えてしまうので不便なのだ。 得られた緯度経度情報から、地図上の位置と照らし合わせる為だ。 彼らの行動を考察する必要もある。それは今後の作戦に役に立つのだ。(こういう事は自動化しないとやってられないな……) そんな事を考えながら黙々と情報を打ち込んでいた。 ディミトリはプログラムを組めるわけでは無いが、簡単なスクリプト程度なら作れる。 その内、自動化してしまおうなどと考えていた。(もう少し勉強しておくんだったな……) 学生時代は成績は下の方だった。勉強より運動の方が面白かったせいもある。 それに学校特有の狭い人間関係も嫌だった。地域から集めるので雑多な境遇のものが集まってくる。 金持ちの子供や貧乏が染み付いているような子供まで色々だ。自然と階級が出来てディミトリは最下層だった。 どんなに羨んでも自分はそう成れないと確認させられる毎日は苦痛だった。 そして何よりも机の前にジッと座ってるのが苦手だったのだ。(でも、兵隊になると自分で掘った穴の中でジッとしてる事が多かったけどな……) 兵隊は銃の手入れをしているか、哨戒の為に塹壕などで前方をみている事が多い。 だが、それだけだ。何かを羨ましく思ったり妬んだり蔑まされたりが無かった。 後は、上司の嫌味を聞き流していれば良かったので楽だったのだ。「!」 ボーッと子供時代のことを思い出していたら車が停止したようだ。 国道沿いに変化していた位置情報は、隣市のマンションで停止したのだ。(くそっ、電話からは何も聞こえてこない……) 移動している間に何度か会話を聞こうと試みたが、紙袋にしまい直されたのか盗聴は成功しなかった。(会話から何かしらの情報が欲しかったんだがなあ……)「タダヤスー、夕飯よー」 階下から祖母の呼ぶ声が聞こえる。「はーーい」 悪巧みをしているディミトリの顔から、中学生のタダヤスの顔に戻して返事をする。 良い子ちゃんを演じきるのは中々大変だとディミトリは思った。 夕食を掻き込むように済ませたディミトリは、自分の部屋に戻ってGPS情報の確認に戻った。 だが、夕食後になっても移動をしていなかった。このマンションが連
鶴ケ崎博士の研究所。 研究所と言っても洋風の屋敷だった。都内から少し離れた都市に広めの一軒家だ。 鶴ケ崎博士はこの屋敷を住居兼研究所としているのだった。 主要な駅から離れた場所にある屋敷の周りは、人通りも無く街灯だけが唯一の明かりであった。 そんな閑散とした通りを白い自動車がゆっくりと通り過ぎていく。まるで、屋敷の中を伺うかのような動きには、野良猫ですら警戒の目を向けている。 屋敷を通り過ぎ、街灯の明かりが途切れる辺りで白い車は停車した。車を運転していた人物は、車のエンジンを切って静寂の中に何かしらの動きが無いかを探るように辺りを伺っていた。 運転手は黒ずくめの格好をしていた。だが、胸の膨らみは隠せない。女性であろう事は外観で判別が出来た。 彼女は壁を軽々と乗り越え、屋敷の外壁に張り付いた。そして、周りを伺う素振りも見せずに台所の扉に取り付いた。 玄関に向かわなかったのは防犯装置が付いているのを知っているからだろう。 台所に扉を自前の解錠用キットで開けた彼女は台所に有った防犯装置を解除した。こうすると家人が家に居る事になって、警備会社に通報が行かなくなるのだ。彼女は防犯装置に詳しいのだろう。鮮やかな手口であった。 博士は独身だったのか、研究所の中は無人であった。 屋敷に侵入できた彼女は迷わずに二階に向かっていった。二階に博士の研究室があるからだ。 室内に入って中を見回す。様々な専門書が壁一面を埋め尽くしている。 部屋の中央の窓よりの部分に机があった。机の上を懐中電灯で照らし出す。机の上にはノートパソコンが一台あった。 ノートパソコンを開けて中を見たが、目的の物が見つからなかったのかため息を付いていた。そして、机の上を懐中電灯で照らして何かを探している。 やがて、引き出しを開けると外付けのハードディスクがあった。表にガムテープが貼られていて、マジックで『Q-UCA』と乱暴に書かれている。「……」 彼女はそれを手にとってシゲシゲと眺めた。やがて、彼女はそれを自分のバッグの中にしまい込んだ。目的のものを見つけたのだ。 すると、部屋の片隅で何か物音がして部屋の明かりが点いた。「!」 彼女は物音がした方角に厳しい目を向け身構えた。「来ると思ってたよ……」 暗闇から一人の狐の覆面を被った男が進み出て声を掛けて来た。彼女はいきなりの展
『ワカモリさん。 どうしましたか?』『急で申し訳ないけど、偽造パスポートを都合して貰えないか?』『ワカモリさんは日本人ですから、日本のパスポートをお持ちになった方が色々と捗りますよ?』 日本のパスポートの信頼度は高い。他の国のパスポートでは入国管理の時に念入りに質問されるが、日本のパスポートの場合には簡単な質問のみの場合が多いのだ。 スネに傷を持つ犯罪者たちには垂涎の的なのだ。『ワカモリのパスポートは使えないんですよ』『え?』『色々な方面に人気者なんでね』『ええ確かに……』 ケリアンが苦笑を漏らしていた。ディミトリが言う人気者の意味を良く知っているからだ。 公安警察の剣崎が自ら乗り出してきた以上は、ワカモリタダヤスは逃亡防止の意味で手配されていると考えていた。『分かりました。 少しお時間をください』『どの位かかりますか?』『一ヶ月……』 ディミトリが依頼しているのは偽造パスポートだ。作成するには色々と下準備が必要なものだ。それには時間もお金もかかる物なのだ。『もう少し早くお願いします。 厄介な所に目を付けられているんですよ』『警察ですか?』『公安の方ですね』『分かりました……』 中国にも公安警察は存在する。そこは欧米などの諜報機関に相当する部署だ。ディミトリが傭兵だった時にも、噂話は良く耳にしていたものだ。 荒っぽい仕事をするので海外での評判は悪かったのだ。 日本には諜報機関は存在しない事になっている。だが、日本の公安警察がそれに相当する組織と見なされていた。 もっとも、国内に居る犯罪組織や日本に敵対する組織の監視が主な任務で、海外の諜報機関のように非合法活動で工作などしたりはしない事にはなっている。だが、表があれば裏が有るように、ディミトリはそんな話は信用していなかった。 ディミトリが『公安警察』に目を付けられていると聞いたケリアンは、ディミトリが急ぐ理由が分かったようだった。『では、二週間位見ておいてください』 少し考えていたのか間をあけてケリアンが返事してきた。 偽造パスポートが出来たら部下に届けさせるとも言っていた。ケリアンは香港に居るらしい。日本国内だと身の危険を感じるのだそうだ。『しかし、人気者だとしたら日本から出国する際に、身元の照会でバレるかも知れませんよ?』 日本には顔認証による人物照会を行
自宅。 ディミトリは病院から帰宅してから部屋に籠もったままだった。 ベッドに転がって天井を睨みつけながらこれからの事を考えていた。 先日の剣崎とのやり取りで気になったことがあったのだ。 一番はヘリコプターを操縦する姿を撮影されていた事だ。 これは、常に張り付きで見張られていた事を示している。きっと、ジャンの倉庫に連れ込まれてひと暴れしたのも知っているのだろう。『人を撃った銃をいつまでも持っているもんじゃないよ』 剣崎はそう言ってディミトリが持つ銃を持っていった。(そう言えば、あれって弾が残っていなかったじゃないか……) 鞄の底から銃を見つけた時に、弾倉を確認していたのを思い出していた。その後、剣崎がもったいぶって登場したのだ。 あれは狙撃手が銃を手に持ったのを確認していたのだろう。つまり、ディミトリが銃と弾倉を触ったのを監視していたのだ。(指紋付きの銃を持っていかれたんじゃ言い訳が出来ねぇじゃねぇか……) 恐らく、倉庫からジャンの手下の遺体を回収済みだろう。遺体の幾つかはあの銃で撃ったものだ。線条痕と指紋付きの銃を持っていかれたらディミトリが犯人だと証明できてしまう。(こっちの弱みを握って何をさせるするつもりなんだよ……) 剣崎は『公安警察』だと言っていた。自分の知識の範囲内では『日本の諜報機関』との認識だった。(俺の家を見張っていたのも剣崎だったのかも知れないな……) オレオレ詐欺グループのアジトを襲った時に、何故か警察のガサ入れが有った。あれは剣崎の指示でやらせたのかも知れない。 それにパチンコ店の駐車場で暴れた時も、店の防犯カメラがディミトリを映していないも不思議だった。それも、剣崎が『故障』させた可能性が高い。ディミトリの存在を秘匿して置きたいのだろう。(金には興味無さげだったな……) 何度目かの寝返りをうって剣崎との会話を思い出していた。一兆円の金を『端金』と言っていた。 本心かどうかは不明だが、普通の奴とは違う考えを持っているようだ。(まあ、確かに人を殺めるのに躊躇いが無い奴は、手駒にしておくと便利だわな……) 便利な使い捨ての駒が手に入ったと剣崎は考えているのかも知れない。(今どき殺し屋でも無いだろうに……) どっちにしろ、まともに扱われるとは思えない。(人の目を気にしながら歩きたく無いもんだな……)
「一つは中国系で日本のチャイニーズマフィアと繋がりがある……」(ジャンの所か……)「一つはロシア系で日本の半グレたちと繋がりがある……」(チャイカの所だな……) ディミトリは何も反論せずに剣崎の話を聞いていた。「全員、君が握っている情報に彼らは興味があるそうなんだがな?」「さあ、何の話だかね……」 麻薬密売組織の資金の事であるのは分かってはいるがトボけた。どう答えても面倒事になるのは分かっているからだ。「少なくとも君を巡って二つの組織が動いている」「中年のおっさんにモテるんだよ。 俺は……」「まあ、特殊な性癖を持つ人には魅力的なのかも知れないが私には分からんよ」「そいつらが探しているのが俺だと言いたいんで?」「他に誰がいるんだ?」 剣崎はディミトリの話など興味ないように続けた。「東京の端っこに住んでる中学生が握ってる情報なんて、近所のゲーセンに入っている機種は何かぐらいだぜ?」「それはどうかね……」「俺はその辺に転がっている平凡な中学生の小僧ですよ?」「それは君にしか分からない事かもしれないね…… 若森くん」「あんた……」「前に来た刑事たちとは違う匂いがするね……」「君と同類の匂いでもするのかい?」「……」「君の言う平凡な中学生ってのは、ヘリコプターを操縦できるのかい?」 剣崎が写真を一枚投げて寄越す。ディミトリは受け取らずに落ちるに任せた。足元に白黒写真が落ちた。 そこにはヘリコプターを操縦する若森忠恭が写り込んでいた。「ヘリの操縦の特殊性は理解しているつもりだ。 機体を五センチ浮かせて安定させるのに半年は掛かるんだそうだ」「……」「最近の中学生はヘリの操縦までするのかね?」「保健体育で習ったのさ」 ディミトリは負けじと言い返した。「それともディミトリ・ゴヴァノフと呼んだ方が早いかな?」「……」 ディミトリの眼付が険しくなった。部屋中にディミトリの殺意が充満していくようだ。「あんたも麻薬組織の金が目当てか?」「……」 ディミトリは銃を引き抜き剣崎に向けた。もちろん殺すつもりだった。だが、引き金を引こうとした時にある事に気がついた。 オレンジ色のドットポイントが剣崎の額に灯っているのだ。だが、それは直ぐに消えた。「クソがっ……」 ディミトリの経験上、ドットポイントが意味するのは一つだけだ。
大川病院の一室。 ディミトリは退院をする為に起き上がっていた。安静にしていれば肩の骨は繋がるだろうとの診断がおりたのだ。 骨にヒビが入った程度の怪我では長期は入院させて貰えないのだ。他の重篤な患者用に退院させられる。 退院の為に荷物づくりをしているのだ。左手が効かないので右手だけでやっている。 着替えなどを鞄に入れていると、その着替えの入っていた鞄の底に銃があった。(え? 何故?) 銃を手にとってみるとジャンの倉庫から脱出する時に使っていたトカレフだ。弾倉を抜き出して確認してみると、中に弾は残っていなかった。(一緒に持ってきた?) 話を聞いた限りでは、身一つで病院の応急処置室に放置されていたと聞いている。それにこんな物騒な物を持っていたら、警察の方で問題視されているはずだ。(アオイが置いて行ったのかな……) ディミトリが入院している間にアオイはやって来て無い。(病室に自分は来たというサイン?)(いやいやいや…… 普通に書き置きで良いだろ……) これが見つかると拙い立場に立たされてしまう。そういう事を思いつかない女では無いはずだとディミトリは訝しんでいた。(そう言えばお婆ちゃんが玩具で遊ぶのも程々にしろと言っていたような気がする……) 祖母はコレを見て、孫の部屋にあったモデルガンを思い出したに違いない。 そんな事を色々考えていると病室の扉がノックされた。ディミトリは慌ててトカレフを背中に隠した。日課のようにやって来る刑事たちだと思ったのだ。「どうぞ」 返事をすると男が一人入って来た。だが、男は毎日やって来る刑事とは違う男だった。「やあ、若森くん…… 君に事故の事を詳しく聞かせて欲しいんだよ……」「いつもの刑事さんたちじゃ無いんですね……」「ああ、所属先が違うもんでね」 ディミトリは警戒しはじめた。刑事たちの眼付は鋭いが、この男からは違った雰囲気を感じ取ったのだ。 そんなディミトリの思惑を無視するかのように質問をし続けた。「君が道路に飛び出した訳を聞きたくてね」「ちょっと、道路を渡ろうとしただけですよ」「そう…… 君が事故に巻き込まれるちょっと前に、パチンコ店に車が飛び込んで来てね」「はあ……」「運転していた男の背格好が君にソックリなんだよ」「僕じゃ無いですよ」「パチンコ店に飛び込んで来た車は、パチンコ店に併
十代の頃に自動車の窃盗で捕まった事がある。その時に、相手の刑事に嘘を並べ立てたがどれも通用しなかった。 最初から全部バレていて全て反論されて自白させられたのだ。 自分では整合性を合わせているつもりでも警察には通用しない。何しろ悪知恵の回る嘘つき相手の商売だ。小悪党の浅知恵など通用しないのだ。 刑事たちを病室の入り口まで見送った祖母は、戻ってくるなりディミトリに尋ねてきた。「タダヤス…… お前は何をしてるんだい?」 祖母はディミトリが無断外泊していた事は言わなかったようだ。ふらりと居なくなったかと思えば、車に刎ねられて病院に入院している。何を考えているのか心配でしょうがないのだろう。 自分はどうやって病院に来たのかと尋ねたら、緊急病室のベッドの上にいつの間にか居たのだそうだ。 幸いタダヤスの顔を知っている看護師が、若森忠恭の事を思い出してくれたらしい。彼は長いこと入院していたのだ。 傷だらけでベッドの上に放り出されていたので騒動になったのも頷ける。それで警察が呼ばれたらしかった。 もちろん、祖母はディミトリの本性は知らない。タダヤスの脳に人工的にディミトリィの魂が埋め込まれているなどと知らせるつもりは無いのだ。それは彼女の為にならないだろう。「ん……」 不意に頭痛がディミトリを襲った。彼の顔がたちまち曇っていった。「痛むのかい?」「ああ、少し横になるよ……」 そう言ってベッドに横になった。この偏頭痛は副作用的なものであるらしい。 無理やり書き込んでいるので、脳の処理が追いつかず肥大化する原因になっていると予測している。脳の活動が活発になりすぎているのだろう。やがて脳が肥大化しすぎて機能停止するとも博士が言っていたような記憶がある。(それって、結構ヤバイ状態じゃないのか?) ディミトリは頭痛の理由が分かり少し焦りを覚えた。今のところはディミトリの人格が現れているに過ぎない。外見的にはタダヤスである。 ディミトリを追いかけ回す連中も事情は知っているのだろう。だから、焦っているのかも知れないとディミトリは思った。 目的はディミトリが持っている資産だ。 それは、中南米の某銀行に預けられている。百億ドル(約一兆円)にもなる金だ。 だから、魂が消えてしまう前にお宝の在り処を聞き出す必要があるのだ。(連中が躍起になって俺を追いかけ回す
看護師が出ていくのと入れ替えで祖母が入ってきた。ディミトリが起き上がって居たのにビックリしたようだ。 それでも心配だったのか、優しく声を掛けてきた。「タダヤス…… 大丈夫かい?」「大丈夫」「本当に男の子はヤンチャで困るわねぇ」「心配かけてゴメンナサイ……」 ディミトリは祖母には素直になるのだ。大好きな祖母に頭を撫でられて泣きそうになってしまった。 果たして祖母にどう説明したものかと考えていたら、病室のドアがノックされてどやどやと男たちが入ってきた。 一人は白衣を着ていたので医師だと分かったが、残りの男二人はスーツを着ていた。しかも眼付が鋭い。(こういう眼付の悪いのは刑事と相場は決まってるな……) 医者は頭痛はするかとか、吐き気は無いかとか質問していた。「こちらは所轄署の刑事さんたちだ」 そう刑事たちを紹介した。車の事故が通報されて、刎ねられた若者が連れ去られたと手配されていたのだ。 捜査していると似たような背格好の男が病院に入院しているので調べに来たらしい。「病状が安定してませんので、質問は手短にお願いしますね?」「はい……」 刑事たちが医者に頭を下げると、それが合図だったかのように看護師を従えて出ていった。「やあ、事故の事を詳しく聞かせて欲しいんだよ……」 ディミトリの方に向き直った刑事たちが尋ねて来た。「道路を渡ろうとしたら車に刎ねられたんです」「横断歩道じゃない所だよね?」「ええ…… 信号機の所まで行くと時間が掛かりそうだったので……」 ここで刑事たちは何事か耳打ちをしていた。そして、今の話をメモ書きするする振りをしながら質問を重ねて来た。「誰かに追いかけられていたと証言する人が居るんだけどね?」「いえ、そんな事無いですよ」 やはり何人かに目撃されて居たようだ。まあ、パチンコ店に車で突っ込んだのだからしょうが無いことだろう。「当日、パチンコ店に車が激突してたんだが、運転していたのは君にソックリだと言われているんだけどね?」「車の免許は持ってないですよ?」「目撃者の証言する年格好が同じに見えるだけどね?」「さあ、そう言われてもね…… 見ての通り何処にでも居る小僧ですよ?」 パチンコ店には至る所に防犯カメラが有るはずだ。それにディミトリが映っている筈なのだが刑事たちの歯切れが悪い。 ひょっとしたら、
(まあ、上書きされるのだから消えてしまうのだろうな……) 一家は全滅するわ脳は乗っ取られるわで、ワカモリタダヤスは地球上でもっともツイテナイ奴だったようだ。(しかし、見ず知らずの小僧に上書き保存されているのか……) 何だかパチモンのUSBメモリーに保存された、違法ソフトの気分に成ってきたのだった。「最近、偏頭痛が酷くないかね?」「ああ、失神してしまうぐらいに手酷いのが襲って来るよ」「その偏頭痛は副作用的なものだな」「……」「他人の脳に無理やり書き込んでいるので、脳の処理が追いつかず肥大化しはじめとるんじゃ」「すまない。 人間に優しい言葉にしてくれ……」「脳の活動が活発になりすぎている。 なら良いか?」「ああ……」「やがて脳が肥大化しすぎて機能停止してしまうかも知れんな…… ふぇっふぇっふぇ……」 博士がそう言って力無く笑い声を出した。「そうか…… じゃあ、元に戻るには自分の身体が必要と言うことだな?」「……」 ディミトリは相手に書き込みが出来るのなら、元に戻すことも出来るのではないかと考えたのだ。 それで博士に質問してみたのだが彼は俯いて黙ったままだった。「?」「……」 ディミトリは振り返って博士を見た。項垂れている。明らかに様子がおかしい。「博士?」「……」 アオイが博士の身体を揺さぶってみたが反応は無い。 彼女は博士の首に指を当てて呟いた。「死んでるみたい……」 博士は椅子に座ったまま絶命していた。シートの下に血溜まりが見えている。 ヘリコプターが飛ぶ時の銃撃戦の弾丸が腹部に命中していたのだった。「くそっ、肝心なことを言わずに……」 一番聞きたかった所を言わずに博士は逝ってしまったようだ。 ディミトリの自分探しの旅は終わりそうに無かった。見知った天井。(うぅぅぅ…… ここはどこだ?) ディミトリは眩しそうに目を開けた。眩しいのは自分の頭上にある蛍光灯のせいのようだ。 だが、視界が定まらないのかグルグルと部屋が回っているような感覚に襲われている。いつもの既視感である。(くそ…… またかよ……) どうやら、お馴染みの大川病院であるようだ。 ディミトリはジャンたちが使っている産業廃棄物処理場にヘリコプターを着陸させた。ここなら無人であると思っていたのだが、考えていた通りに誰も居なかった。ヘリコ
ヘリコプターの中。 ディミトリたちを載せたヘリコプターは川沿いに飛行を続けていた。普段、見慣れないヘリコプターが低空飛行をする様子を、川沿いの人たちは驚きの顔を向けていた。 操縦席にディミトリ。後ろの席に博士とアオイが乗っていた。「なぁ博士。 クッラクコアって手術はどうやるんだ?」 ディミトリが後部座席に座っている博士に質問をした。何か話をして気を紛らわさないと痛みに負けそうだからだ。「簡単に言えば、人の脳に他人の記憶を書き込む手術のことだ」 博士が素っ気無く答えた。アオイが吃驚したような表情を浮かべていた。「そんな事を出来るわけが無いだろ」 ディミトリは笑いながら答えた。普通に考えて滑稽な話だからだ。「じゃあ、今のお前は何なんだ?」「……」 そう言われるとディミトリも困ってしまった。何しろ自分は東洋の見知らぬ少年の中に居るからだ。 魂とは何かと言われても哲学や医学の素養が無いディミトリには無理な話だ。「世間が知っている技術では出来ないというだけの一つの話に過ぎないんじゃよ」 そう言って博士はクックックッと笑った。 どうやら博士は他にも色々と問題のありそうな手術をした経験がありそうだ。(ドローンの盗聴装置の話みたいだな……) ロシアのGRUに居た友人の話で、ドローンを使った盗聴装置の話を聞いたことがある。 ドローンからレーザー光線を出し、それがガラスに当たった振幅を解析する事で、部屋の中の会話を盗み聴きするヤツだ。既に実用化されていて、今は人工衛星を使っての同種の装置を開発しているのだそうだ。 これ一つ取っても科学技術の進歩の凄まじさが伺えるようだ。(犬に埋め込んだ盗聴装置もあったしな……) 生物の代謝に伴うエネルギーを電源に使うタイプの盗聴装置だ。これだと長い期間動作が可能になる。 これが対人間相手の技術なら、その進歩はもっと凄いことになっていそうだとディミトリは思った。「科学の世界には、表に出てない技術が山のように有るもんだよ」「クラックコアもその一つなのか?」「もちろんだとも」 人間の記憶というのは神経細胞のシナプスに化学変化として蓄えられている。その神経細胞を構成するニューロンの回路としてネットワーク化される。無限とも言える変化の連続を、人間は記憶と呼んでいるのだ。 そして、記憶と記憶を結びつける行為を